会社の精神性を次世代に残したい 思井伝蔵 66歳

先代の社長の声を残していなかった。先代は既に亡くなってしまったが、先代から引き継いだ、当社の精神性を次世代に残したい。

しかし、文字にして残しても、ウチの社員は多分読まないだろう。なにかよい方法はないものか?

オフィスエンニチでは、思いを持ったお客様と心で繋がり、仕事をしたいと思っております。

このページには、思いを持って人生を生きる人物が登場します。できるだけリアルに描いた人物像です。思井伝蔵さんのストーリーをお楽しみくださいませ。

プロフィール

  1. 思井伝蔵(おもいでんぞう)
  2. 1956年6月生 神奈川県保土ヶ谷市市 笹山団地で生まれ育つ
  3. 身長168cm/体重65kg
  4. 職業 ゴム部品 製造企業 経営者
  5. 横浜国立大学 経済学部卒業
  6. 好きな食べ物 バナナ・カレーライス
  7. 好きなアーティスト ビートルズ、サイモン&ガーファンクル、フランシス・レイ・オーケストラ、アストラッド・ジルベルト
  8. 趣味 読書
  9. 尊敬する人 マハトマ・ガンディー
  10. 家族 妻・子供2人(男の子38歳・男の子36歳)

思井伝蔵の少年時代

笹山団地は神奈川県保土ヶ谷市で1963年頃から公募が始まった団地である。

当時の笹山団地は建設されたばかりで、周囲の住民達の憧れの的であった。思井伝蔵は、この団地に9歳のときに引っ越してきた。父親は銀行員、母親は専業主婦という中流家庭に生まれた伝蔵。当時は比較的恵まれた環境だったようだ。

1965年の時代背景(伝蔵9歳)

当時の生活を振り返ってみる。

  • 大卒初任給(公務員)15.700円
  • 高卒初任給(公務員)11.000円

物価

  • 牛乳:16円
  • かけそば:40円
  • ラーメン:50円
  • 喫茶店(コーヒー):60円
  • 銭湯:23円
  • 週刊誌:40円
  • 新聞購読料:450円
  • 映画館:250円

このような時代に育った伝蔵の楽しみはテレビであった。当時、思井家の家庭には白黒テレビがあった。テレビが家族団らんの中心だったのだ。

伝蔵の好きな番組は新宝島、宇宙少年ソランだった。他にも、鉄人28号やゼロ戦のプラモデルで遊んだ。

https://tezukaosamu.net/jp/anime/52.html

そんな少年時代の伝蔵の趣味はラジオで音楽を聞くことだった。ビートルズ、サイモン&ガーファンクル、フランシス・レイ・オーケストラなど、海外の音楽がラジオから聞こえてきた。

特に、13歳の時、ラジオで聞いた、アストラッド・ジルベルトの歌声は鮮烈に記憶に残っている。

まだ見ぬ異国から聞こえてくるこの音は伝蔵の心象風景だ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88

しかし、当時の海外旅行は超高額。一般的な家庭では、海外旅行など、夢のまた夢だ。簡単に行けることがない外国だからこそ、伝蔵の「まだ見ぬ世界への思い」は強くなっていった。

https://www.jal.com/ja/outline/history/aircraft/

ちょうどその年、大阪万博が開催された。未来を感じさせる万博は当時の日本を狂騒に巻き込んだ。

伝蔵はますます、「まだ見ぬ新しい世界や新しい世界で起る事」への思いを強くしていった。伝蔵の胸は、強烈な未来への希望と憧れで燃えたぎるようだった。

青年時代

高校在学中に上述のような思いを固めた伝蔵。大学は横浜国立大学の経済学部。当時の大学進学率は20~30%。エリート層に入りたいという思いがあったのか、伝蔵本人もよくわからない。

とにかく、伝蔵にとって、大学に入ることは、ずっと前から決められていたかのごとく、当然のことだった。客観的にみても、相当な努力をした。

伝蔵は努力をできる生来の能力を備えていた。努力をすることが当たり前である、とさえ思っていた。その背景は、伝蔵の家柄が与えた影響が大きいのかもしれない。
伝蔵の親は努力をすることが当たり前にできた人だった。そんな父に育てられた伝蔵は当時でも相対的にとても優秀な人物だった。

15歳のときに横浜国立大学の学生になることを決めた伝蔵は、音楽以外の一切の楽しみを断って勉強に専念した。その努力は傍からみると、凄まじいものがあった。

朝6時に起きて、1時間勉強をしたあと、学校に行き、学校から帰宅してからはずっと机に齧りついて23時まで勉強をした。

ちなみに、高校生当時の伝蔵の楽しみはラジオをきくことだった。ラジオを聞き、異国に思いをはせる時間は何よりも幸せな時間だった。この時間は伝蔵の人格を形成したのだ。

さて、大学生になって、ガロのファンになった伝蔵。つげ義春の漫画が好きで、日本各地のひなびた温泉地に旅行に行くことを目的とするサークルに入り、貧乏旅行を繰り返した。

とても充実した大学時代を過ごした。就職を考え始めたのが1977年頃だ。その当時の就職状況は紹介や縁故採用が大半を占める。叔父の縁故で決まった就職先は中堅の化学商社だった。

化学品の商社時代

最初の配属先は大阪だった。大阪で担当したのが、化学品の原材料の卸だ。化学の事は全く知らなかったが、営業は楽しかった。毎週、お客様との麻雀、接待、ゴルフ。そんな生活を2年も続けてくると、飽きてきた。忙しいが、忙しさの質が好きじゃなかった。

とにかく猛烈に働く時代だった 画像引用元 https://ossanmagazine.com/lifehack/ossan-diary/24%E6%99%82%E9%96%93%E6%88%A6%E3%81%88%E3%81%BE%E3%81%99%E3%81%8B%EF%BC%9F/

ゴルフや麻雀をやっていたら、売上は継続的に上がるのだ。とにかく忙しいが、ずっとここにいたら人間がだめになる、そう思い始めた。担当していた顧客は30社。

その中に、ゴムの町工場があった。東大阪の大阪護謨だ。社員50人程度の会社だ。この会社に化学品を卸していたのだが、社長とウマがあった。この社長が伝蔵をとても可愛がってくれたのだ。よく笑う人で、いつ訪問しても楽しそうだ。

訪問するたびに社食をごちそうになった。その社食が美味いのだ。月曜日はカツカレーだ。伝蔵は社長とカツカレーを食べながら、社長の話を聞くのが楽しみになっていた。

「うちの工場は小さいが、夢がある、ゴム業界はこれからどんどん伸びるぞ、これからは機械化だ。人がやる単純労働はどんどん機械にしていくんだ。コンピューターを導入して、どんどん仕組みを作っていくぞ」

当時のコンピューターはこんな奥ゆきのあるどでかいものだった https://pin.it/2BMbShU

他にも、社長はたくさんの話をしてくれた。ゴムの部品を作っている工場だが、この国を支えている自負があること。この国のあらゆる産業はゴムなくしては成り立たないこと。

社員の事、職人のような社員を作らないように、なるべくローテーションをしていること、社員が工場の機械を使って、遊びでいろんなモノを作ること、それらが商品化されたことも嬉しそうに語ってくれた。

実際、現場で働く社員はイキイキとして、いつも遊んでいるように仕事をしていた。社長は語った通り、少しづつ、機械化、コンピューター化を進めていき、伝蔵への注文も増えていった。

いつしか、この社長の元で働きたい、と思うようになっていった伝蔵。入社7年目のある秋の日であった。1985年、空前のバブル景気に湧く日本。

10月になり、少しづつ肌寒くなってきており、伝蔵はスーツにコート姿で社長を訪問した。社長はいつもの部屋で伝蔵を迎えてくれた。いつものように雑談をする。
話が採用の話になった。

「いやな、それが・・・ウチ、今、営業マンを募集しとるんやけど、募集しても、ウチみたいな東大阪の町工場に営業でくるなんてモンがおらんのや。もう5ヶ月も応募がきとらん」
これだ。

これはチャンスだ。伝蔵はその場で社長に直談判をした。

「社長、一緒に働かせてください!」

大阪護謨に就職した伝蔵

大阪護謨で働き始めた伝蔵は営業としてみるみる成果を挙げた。化学品の商社での経験が大きかった。ネットワークをたどっていくと、意外にも会える人は多いものだ。人に会って、様々な商談を作っていき、売上は徐々に上がっていった。

大阪護謨に入社してから10年、1993年。伝蔵は営業部の部長になっていた。伝蔵37歳のときだ。

伝蔵が入ったときに社員50だった会社は60人になっていた。部下は5人。60人の会社で営業マンが3人もいる会社は多くないだろう。これは社長の方針が大きい。

現場は機械化が進み、大阪護謨ならではの仕事のオペレーションができつつあり、現場で機械を操作する仕事は減っていた。

むしろ、コンピュータによる多品種少量生産を進めており、かつては、全売上に占める大口顧客の割合は7割を超えていたものの、現在は6割程度となっている。

小口の顧客が増え、それらの顧客に対応するために、社内のコミュニケーションが必須だ。コミュニケーションこそが仕事の基本であることは他社も同じだが、その必要とされる程度が圧倒的に多いのだ。

営業との接点もとても多い。伝蔵はつとめて現場とのコミュニケーションを多くとるようにしていた。いつしか、コミュニケーションが自然にとれることは会社の文化として定着していた。

伝蔵の社長就任

さて、そこから、16年。2006年、伝蔵が50歳の時、社長より、次期社長より社長への就任を打診された。営業部門の取締役になっていた伝蔵は、この会社を大きくした立役者といって良い。貢献度は非常に高いのだ。

親族でない者が事業承継をすることは、よほど社内からの信頼があつくなければ成り立たない。次の年、誰もが納得する形で、伝蔵は社長に就任した。会社は100人になっていた。

大きくなった会社は課題も抱えていた。100人の会社ともなると、新卒社員も入ってきている。昔の社長の時代を知らない社員も増えてきている。伝蔵は先代社長の精神性に惹かれて入社した。

先代社長はよく笑う、豪快でいかにも町工場の親分で、家族的な雰囲気を作った人だ。その文化は社内に根付いている。この会社では何でもやりたいことをやってよい。それが新しい事業の芽になることがあり得るからだ。

ただし、お金の計算もしっかりする文化も根付いている。中小企業の町工場は人が全てだ。だからこそ、社員を大事に、社員のアイデアを大事にする。そのアイデアを形にすることで会社が成長する基盤をつくってきたのだ。

自分はこの文化を継承する者としての責務を全うしなければならない。身が引き締まる思いだった。

引退を考える伝蔵

そこから17年。いつのまにやら、伝蔵は66歳になっていた。会社は150人規模になり、更に大きくなっている。事業は順調だが、自身は既に高齢だ。

社長としてもそろそろ交代の時期だ。70歳になるまでには事業を承継したい。幸い、息子が10年前に入社している。彼に社長を譲ろうと思っている。

既に文化ができている中、息子が社長になったら、口出しはしないつもりだが、精神性は伝えていきたい。息子だけに伝えるのではなく、一人ひとりに語りかけて残していきたいのだ。なぜなら、文化はひとりひとりの社員の中に継承されていくものだからだ。

先代の社長の言葉とともに、私の遺言を残すつもりで声を残したい。しかし、一人で話すのはなんとも想像がつかない。

どうしたらいいものやら・・・

オフィスエンニチからのご提案

思井伝蔵さんのように、精神性を残したいという経営者様には、インタビュー形式で、人生を振り返って頂くのはいかがでしょうか。

組織を動かすのは、仕組みなどではなく、根底にあるのは人の心です。人の経験、感じたことなどを通して精神性は構築されます。

インタビュー形式で人生を幼少期から振り返ることで、普段は言語化できない、見えない部分が言語化されます。

その際はカメラはないほうがよいかもしれません。好きに話す、気持ちよく話すことが大事なんです。その中で出てくるこぼれ話に大事な価値観が隠れていることがあるのです。