親の代から続く鉄工所を継いで10年。二代目等さん(仮名)
プラズマ切断、ガス切断、曲げ加工、溶接、切削など、すべての工程を行う。少しずつ社員を増やし、今や90人にまで増えているが、売り上げ高営業利益率は横ばいだ。
固定費以上に稼がなければ維持できない。
社長の考え方や価値観を一人ひとりに伝えるのには限界がある。むしろ伝わらない。
この会社の文化を作って、その文化で会社を成長させたいが、この思いをダイレクトに伝えるにはどうしたらよいか・・・・
オフィスエンニチでは、思いを持ったお客様と心で繋がり、仕事をしたいと思っております。
このページには、思いを持って仕事に邁進する架空の人物が登場します。できるだけリアルに描いた人物像です。是非、二代目等さんのストーリーをお楽しみくださいませ。
プロフィール
- 二代目等(にだいめひとし)
- 1971年生まれ
- 身長169cm/体重68kg
- 堺市出身、経営者
- 関西大学卒業
- 好きな食べ物 芋焼酎、他は特にこだわりなし
- 影響を受けたアーティスト RUM-DMC
- 趣味 読書(ビジネス書がメイン)
- 職歴 プログラマ、システムエンジニア (ドットコムバブル経験者。ITに強く、会社をITで強くしたい)
- 尊敬する経営者 本田宗一郎
- 家族 妻・子供2人(女の子21歳・男の子18歳)
ストーリー
大阪府堺市に、会社を構える未来創造企業「未来兄弟社」。今から50年前の1972年に、二代目等の父親、力が始めた会社。
大手製造業の Tier 1企業で、プラズマ切断、ガス切断、曲げ加工、溶接、切削など、すべての工程を行うことが出来る。
現在は等が社長を務めている。先代の社長は5年前に急逝。40歳までサラリーマンとして働いてきたが、突然親の会社を継ぐことに 。

幼い頃から父の工場で遊んできた。その中で父は面白くなければ仕事じゃない、と常に言っていた。
前職はシステムエンジニア。つまり、 IT関係には強い。システムエンジニアとしてはかなり苦労した。長時間労働と、多少ブラックなところもある会社でも働いた。
子供の頃から面白いことが大好き。中学生の時に聞いたRun DMCには衝撃を受けた。Van Halenとラップが組み合わさった、かつて無いかっこよさ。ハードロックもHiphopも知らなかったが、FMで聞いて一気に引き込まれた。
1986年には来日。ライブにもいった。そこで見た圧倒的なパフォーマンスは、その後の人生に影響を及ぼした。
高2になってから、バンドを始め、ギターとボーカルを担当。バンド活動ではロック、ファンク、演奏の腕がよく、よく外のバンドに呼ばれて演奏もこなした。
会社に入ってからは、プログラミングに夢中になった。
もともと、RUN-DMCのファンだ。生来、面白いこと、新しいことが大好きな性格である。最初の仕事は、プログラマを選んだ。プログラムを作って自分の思い通りに動くのが楽しくて仕方がない。

新しいことには飛びついた。新しい言語が出たら即座に覚えた。しかし30を超えた頃から、自らがプログラムを書くことよりも、チームを動かす仕事が増えてきた。
自分がプログラムを書くことは減ってきてチームのトップとして人を動かすように。プロジェクトを率いる立場になったこともある。その中では仲間の成長が何よりも嬉しかった。
とある部下のことをものすごく覚えている。なかなか伸び悩んだ部下。入社してから正直何が得意かよくわからなかった。ミスも多く、この子は辞めるかもしれないと思った。
しかし会話をしているうちに 、お客にやたら好かれるという強みが見えてきた。
この子は営業向きかもしれない、そう見立てて、 顧客との接点を増やすようにしてみた。そうすると案の定、その部下が関わった案件は何故かうまいこといく。
本人も生き生きしてきた。 その姿を見ているのがすごく嬉しかった。
そこから人を育てるのがすごく楽しくなった。そして部下が自分に感謝をしてくれる。仕事ってこんなに楽しいのかと思った。
自分の出世よりも、部下が成長する事の方が自分にとっては幸せだ。そう心から思えた。
そんな矢先、父が突然亡くなった。ある程度、ぼんやりと頭に描いていたことだが、こんなに突然に来るとは思わなかった。40歳のときだ。
父が作った会社
ちなみに、父が作ったこの会社は未来兄弟社という。
金属は形を変えて建機の部材になり、未来を創る。しかし、未来を創るのはまず第一に社員の未来だ。そんな思いで、35歳の時に弟と作った会社だ。初めは仕事がなかった。
しかし、弟と二人で必死に営業して、少しづつ大きくした。そもそも、そんな苦労をして、父はなぜ未来兄弟社をつくったのか。そこには思いがあったからだ。
父の思い
1945年には大阪大空襲があり大阪は焼け野原だった。堺も例外でなく、空襲にあった。

当時、9歳だった力は親を空襲で亡くし、孤児として育った。育ての親は叔父一家だ。弟と一緒に引き取られ、14歳から働き始めた。周りには同じような境遇の子供がたくさんいた。
皆、親がいなかったり、障害を負っていたり。幸い、力は体が丈夫だったので、力仕事が得意だった。
16歳のときに働き始めた鉄工所では、重い100kgもある鉄を運んだ。20歳からは溶接も覚え、25歳で工場内の仕事はすべて覚えた。
いつしか、自分で営業に行くようになり、少しづつ信頼されていった。30歳になった力は、地元である堺をもっと豊かにしたい、と思う様になった。また、34歳のときに等が生まれた。この年代の男性にしては遅くにできた子供だ。ものすごく愛おしかった。子供が生まれた年の8月のある夜のことだった。
地元の焼き鳥屋で、弟と芋焼酎の水割を飲みながらこんな会話をした。

「俺らは中学校もろくに行けなかった。日本は少しづつ豊かになってきて、息子も生まれた。若い世代も育っているが、まだまだ堺は貧しいままや。そうや、息子のためにも、若い世代のためにも、堺市の未来を作るのはどうやろ?」
そんな思いで始めたのが未来兄弟社だ。未来という言葉には、地元の奴らの未来、という意味が込められていた。
転機を迎える未来兄弟社
父の弟は15年前に癌で他界し、そこからは父が一人で頑張ってきた。
創業から39年。力は必死で仕事を増やして少しづつ大きくした未来兄弟社は、2011年、大きな節目を迎える。力が突然心臓発作で倒れ、そのまま亡くなったのだ。74歳だった。
この出来事は未来兄弟社にとって、そして社員にとって、大きなニュースだった。力は名実ともに、この会社の屋台骨だったのだ。
屋台骨を失った家はぐらついてしまう。力が採用し、力とともに兄弟社を支えてきた専務、大木心はすぐに等に打診。等はショックを受けたが、会社を継ぐことを1週間で決めた。
父の代からの社員はすでに高齢で辞めてしまった方も多い。70歳を超えて、今も働き続けてくれている方もいる。そして、父は心臓発作で亡くなった。突然の死だ。
社員は誰もが悲しんだ。社員にとっても父のような存在だったのだ。
等は会社を継いでから、初めて父の創業の思いや、どのように社員達に接してきたかを聞いて驚いたのだ。この会社は父の心が築いた、社員たちの愛で成り立っている。そう思った。
絶対にこの会社を存続させなければならない。等は父の思いを継承し、受け継いでいくことを誓ったのだ。こうして等は家業を継ぐことになった。
等が社長に就任してから
最初は苦労した。自分の会社がやっていることをほとんど理解できない。
これには困った。大きくないとはいえ70人を超える会社だ。この会社で実質的な管理職といえば、社長しかいない。
まずは、現場の社員達とひたすら話をして回った。 辛抱強く社員と対話を続けるうちに、それぞれの部門の行っている事や、勘所がなんとなくわかってきた。
社員の能力も大体把握できるようになってきた。
古参の社員もいて、みな人柄は良い。しかし、コミュニケーションが苦手というか、暗黙知になっていることがとても多い。
社員の平均年齢は30代だ。つまり、若い社員をこの先も雇用し続ける為に、会社を成長させなければならないのだ。
その為には、社員の知識を共有し、新しいことに取り組まないと成長できない。普通はそう考える。
しかし、等が普通の経営者と違うのは、社員の個人商店化を許したことだ。それで社員がイキイキと働くなら、それでいいじゃないか。
この社員達は私が雇用していなければ行くところが無い。
会社が回るならそれでいいじゃないか。そう考えたのだ。仕事がなくなる恐怖で仕事を離さないのなら、それさえも認めてしまう。そんな包容力が等にはあった。
自然と、社員は安心して個人商店を辞め始めた。しかし、それだけでは不十分だ。成長しなければ、先はない。
等の戦略
等は40歳でこの会社に来た。父ほどの思い入れが強くない業界だからこそ、客観的な目を持つことが出来る。
この業界はこの先、採用難でどんどん消えていく。仕事をしたくても働き手がいない。その中で生き残るには、採用と機械化、社員のユニークさ。
それがうまくできれば、競合は自然と減っていく。残った会社の中でも最先端の技術を持つと、会社には仕事が集まる。
それが等の戦略だった。しかし、社員は高卒の社員が多く、等の考え、戦略を心の底から理解できないのだ。正直、能力が高くない社員も多い。同時に、経営上の課題もある。
未来兄弟社の抱える課題
等になってからの未来兄弟社は少しずつ社員を増やし、今や90人にまで増えている。
しかし、売り上げ高営業利益率はまだまだ横ばいだ。
人を増やす分だけ稼がなければならないのは直面している宿命である。
新しいアイデアを社内で生み出し、育てるには、焦ってはならない。しかし固定費以上に稼がなければ維持できないというジレンマもある。
一人一人になるべくコミュニケーションを取ってきたが、一人一人に費やす時間は確実に減り、社長が人柄をよく知らない社員もいる。
それぞれの社員の強みを活かした経営をしたいが、一人で回してきた限界が来つつある。
等の計画
社長が一人で頑張るより、組織の文化で会社を運営する方が楽だ。
一人ひとりの個性を活かして仕事を作る、というスタイルが文化として定着するまでは、社長が粘り強く、考え方、価値観を伝えることが大事だ。
しかし、全社集会は月に一度だけ、あらためて社員を呼んで話すのは警戒される。
一人一人と根気強く話す時間を作るのは良いが、それだけで、10年くらいあっという間に経過しそうだ。
家族的な文化はあるが、これ以上のフェーズに成長するには、そろそろ限界かもしれない。
社員の中にはあまり話したことのないものも出てきて 、若い社員などは年に数回ぐらいしか話す機会がない。
会社内のブランディング、全員が理念に向けて理解し共感し行動し、それぞれの責任において多少勝手にでも、ビジネスを展開して欲しい。
そんな文化を作りたい。
そのためには、社長である私の思いや考え、ビジョンを社員に伝える必要がある。しかし案外伝わらないものだ。
こんなことも伝わってないのか、と愕然とすることもある。伝えたいことを余すことなく伝える方法は無いものか。